2017年11月30日木曜日

壁を壊すとみえてくること


このひと月の間、壁を壊したり、壁を作ったりしていました。

あたらしい土-tsuchi-は多くの人のとの出会いから繋がってきた場所と土と家。

古民家というには新しい築40年の中古住宅を夏の終わり頃に紹介いただいて、拠点をこの地に決め、秋からDIYで工事を進めているのです。


***** 以下農地を含んだ家屋の売買について細かい話 ******
農地も含んでいたので(かなり広いです)大家さんとの契約書の作成だけでは売買は成立しません。
農地は許可なく売買はできないという法律があるというのを今回初めて知りました。その許可をするのが市町村の農業委員会だということで、地域によってはその許可をもらうのがかなり困難な場合があるそうです。
町農業委員会への農地譲渡の申請が必要で、申請には土地の写真を取ること、役場が出している農地の図面、一般の地図の図面、農地を使うにあたっての計画書などを書きました。

移住者の場合の家の購入や改修には町からの補助金が申請できるのですが、このための申請書作成もかなり複雑で、契約を取り交わす前に出す書類、契約書と領収書と住民票と申請書、農業委員会からの許可をもらってからの登記謄本の提出などなど、思い出せないぐらいの手順がありました。複雑ですので、役場にはなんども足を運ぶことが必要になります。
また、ご近所の農業委員会のメンバーの方がこの家を購入することや書類の作成などいろいろな助言をもらいました。この人がいなければ簡単には進まなかったことがたくさんあります。そんな「この人がいなければ」という方が他にもたくさんいて、いろいろな縁でここに移り住むことができています。
*****


40年の家は、壁は土壁、そして内装に一部石膏ボードが使われていました。

土壁は壊しやすく、そして壊しても自然に帰っていきます。

吸湿性があり、耐熱であり、蔵のように厚くすれば断熱や蓄熱にもなります。

土壁は作っていく工程が長くかかるため、また職人さんも減ってきていて、最近は作られなくなっているようです。



*******
この家の場合、土壁に8mmほどのモルタルが塗ってあり、その上から砂壁になっていました。

モルタルを剥がすと土があり、土は竹の編んだものを心材にして藁と一緒に練り込まれていました。

新建材だと石膏ボードなどになるでしょうけれども、すぐに土に帰る、というわけにはいかず、少し手間がかかります。

剥がすときもたくさんの釘かビスがあり、それを支える木材にも釘がたくさん使われているので、手間がかかります。

新しい壁を土壁にしたかったのですが、トイレ周りは日程の都合上、今回は合板、下地材、珪藻土の塗り壁にしています。
*********





家の壁もそうですが、人生にも目の前に壁が出てくるときがあります。

そんな壁を壊すことも時には必要になるかと思います。

いつもは壁を壊すなんてことは考えもつかないかもしれないけれど、

家族の構成が変わったときとか、

仕事が変わったときとか、

どうしてもこれは困ったな、というときとか、

ずっとおかしいな、と感じてきたことに気づいたときとか、

いろんなことで壁を越えないといけない。

そんなときは壁を壊すことを考えてみるのも一つの手だと思います。


思いついたはいいけれども、

本当にこの壁を壊してもいいのだろうか?

と考えることもあります。

不安だから、止めておこうか。

壁を壊すのはその直前まで不安かもしれません。


でもやっぱり必要ではない壁もあります。

そんなときは思い切って壊してみる。


どーん。

最初の一撃が衝撃的です。

そのあとはメリメリとかバサバサとか、音もホコリもすごい。



壊し始めると、簡単なときがあり、

思ったよりも手強いときもあります。

あ、しまった、ということもおきます。

そんな時は立ち止まったりします。

でも失敗だということは何一つないのだ、と気づくことがあります。



だから、壊す勇気を持ってみること。


慌てずにいれば、頭がクリアになって、目が澄んでくる。

このクリアになった目で見定めることで、

きれいに壊すことが可能になるのだと思います。


壊すことは無心で、何も考えないようでいて、

勉強できることがたくさんできます。

壁の奥には知らなかったことが隠れていたりして、

見た目とは違って複雑な構造だとか、

作った人はこんなことを考えて作ったんだろうな、なんてことが分かる。

その壁を自分が作ったのだとしたら、自分自身がよく分かる。

壊すことで学ぶことがあり、そのことで物事や知識を得る、

そして壊してしまえば、こころが明るくなります。



壊せばそれで終わり、

ではありません。


壊した後は必ず想像があり、創造がおきます。

また新たに壁を作り始めるのです。

人生における壁とは限界や制限のことですよね。

自分で限界を作るといえばなんだかマイナスのイメージかもしれません。

まさか自分でしばりや限界、制限を作るよりも、自由でいることを求めそうなものなのですが、

この壁とは新たなルール、新しい生き方と言えばいいでしょうか。

今までとは違った自分のテーマや乗り越えようという成長のステップとなります。

新たな限界でもあり壁ですが、それがあるために成長があるのです。

いきている間には、そんな新しい壁を乗り越える時がなんどもやってくるのだと思います。

2017年3月11日土曜日

震災と10周年




2011年3月11日は東日本大震災の日です。

同じ日になるのですが、その数年前、2008年3月11日に、

ヨーガ堂・土-tsuchi-初めてのクラスを行いました。

今年は10周年になるわけです。

2011年の3月11日震災のあった時間、

ちょうどラマナ・マハリシの聖地であるアルナーチャラの丘で瞑想をしていました。

マハリシが瞑想していたという岩の祠の中で、目を閉じていると、

ぐるんぐるんと何かのエネルギーが回っているような、そんな感じがしました。

暑い日で、ノドがからからと渇いて町におりました。

山を下りて宿の下にあるネットショップで震災のことを知りました。


震災後、ガネーシャ神とシヴァ神の像に出会うために大都市チェンナイの街を歩き回りました。

ガネーシャは災厄を振り払ってくれる神様です。

その時の日本にはとても必要な神様だと思いました。

やがてようやくガネーシャ神とシヴァ神の像に出逢い、

日本に来ていただけますか?

と心の中で聞いてみました。

OKをいただいたような気がして、

そうして店のご主人と話をすると、

日本は放射能で大変だな。

広島も長崎も大変だったのに。

おまえの家は大丈夫か? と聞いてくれました。

そしてなにもこちらから言っていないのに値引きしてくれました。

そんなわけで、土のガネーシャは震災後の日本を救うためにやってきてくれています。

鳥取県智頭町にやってきて1週間。

まだガネーシャ神は開封を待ったまま、眠っておられます。

はやく家を整えてあげなければ、と思いながら、

今日は冷蔵庫を運ぶだけの一日となってしまいました。

明日は集落の人へのご挨拶。

そんなヨーガ堂・土-tsuchi-の10周年のはじまりです。


2017年1月20日金曜日

子どもとインド






今、インドに来ています。

家族が一人増え、3人になっての初めのインド。

そして、たくさんの日本人の友人たち、生徒たち、ヨーガの先生たち、と一緒に、

また、私たちをいつも正しい知識へと導いてくれる先生、Dr.スンダルとDr.ギーターさん、その子供たち、素敵なスタッフと一緒にいる、ありがたい日々です。




今回のインドでは、今までのインド旅ではなかったことがあります。

一つは子どもと一緒の時間がものすごく長いこと。

子どもとの時間は集中と忍耐が必要になります。
観察にはじまり、遊びも注意もあります。
ときには驚嘆や喜び、感謝につながる。
集中が途切れないという意味では、これは一つの瞑想です。
集中が途切れるときには
イライラや退屈、怒り、疲れになる。

子どもは自分の思い通りになる人形ではないこと。
失敗のように見える体験も、子どもにとっても親にとっても、
とても貴重な一瞬一瞬があり、
どんな風に見えようとも、大人と同じ、一つの尊重すべき人間である、ということ。
集中を続けるためには、この考えを常に心の中心に持っている必要が出てきます。


単純なようで、いつも変化し続けている子ども。
子どもは寝ているか、食べているか、遊んでいます。
その中で、好きなことができているか、できないか、
嫌いなことから逃げられるか、逃げられていないかがあり、
泣いているか、怒っているか、笑っているか、つまらないかの感情があります。

この中で、親としては子どもの基本欲求を満たすための環境を整える仕事がたくさんでてきます。

①アルタ:子どもの安全の確保。危険なものを遠ざけて、怪我のないようにすること。

最低限の食事を整えること。睡眠を妨げないように準備すること。排泄のタイミングをはずさないようにすること。

②カーマ:親や他の人と最大限のコミュニケーションの機会を作ること。

自然に触れ、遊具と遊び、楽しみと学びの機会を見つけていくこと。

③ダルマ:環境との調和、少しずつ外の世界に触れて、世界がどのようになっているかを学ぶこと。他との関係性を体験、経験し、世界の知識を自分の知識としていくこと。
ダルマは周りの世界においてのその人のやるべきこと、義務という意味もあります。子どもはこの世界における自分の位置を確かめるために、少しずつ冒険を続けて昨日よりも今日、今日よりも明日はもっと遠くへ、世界を見ていこうとしています。
そのときの好奇心を消さないよう、大人は干渉しないように見守るというダルマ:義務を持っているのです。
子どもたちのダルマ(仕事)は、環境や人々とのコミュニケーションに挑戦すること、広げていくこと。





これまでのインドと違っていること二つ目は、

ネットを介しての仕事を抱えていること。


このインド行きの直前には家の片付け、引っ越しがあったのですが、

同時に新たな仕事を頼まれて、

急いで多くのことをバタバタとこなしてきましたが、

いよいよインドに来てもその仕事を処理している状態です。

LINEを通じて即座に多くの人の考えがスマートホン越しに飛び込んできます。

まるでそれは日本にいるのと変わりがありません。

それだけどこでも仕事ができるような世の中になってきたということなのでしょうね。

2016年9月14日水曜日

感謝って何だろう

このところ、感謝とは何かをいろいろと考えていました。


スピリチュアル本では「感謝」は最終的なキーワードとして必ず顕れるシークレットワードのようなものです。
しかし、感謝をたくさん書いてある本をみると、なぜかつまらなく感じてしまう。
あまのじゃくですね。

そこで、感謝とは何かを分解してみたくなったのです。


赤ん坊にとって手にモノを持つことは楽しみの一つです。

しばらくすると、その楽しみであるモノを誰かに渡したり、渡されたりすることが楽しみになります。
その時、そばにいる大人は必ずモノを渡したり、渡されたりするときに
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
の声をかけます。

言葉が出るようになれば、
この
「どーぞ」
「あーとう」(ありがとう)
が楽しくなります。

このありがとうの始まりを見ていると感謝についてなにかがわかってくるような気がします。
感謝があるとき、何があるのか。

感謝があるとき、

 ①他者や対象がある

 ②そこから渡されたモノやココロがある

 ③そしてわき上がる喜びがある


感謝はこの喜びの表現です。渡されたモノやココロに対する反応であり、
キャッチボールのようなコミュニケーションです。

けれどもコミュニケーションの道具とは少し違うところがあるかもしれません。

感謝の言葉をもらえない、「こんなにしてあげたのに、感謝されない」、といった状況があるとします。
コミュニケーションのルールとしては、何か一言が必要とされます。
でなければ、投げたボールを認識していないかもしれないからです。

しかし感謝かどうかは受け手に完全に頼っています。

ボールを受けた側に喜びがあるかどうか。
喜びが無い場合に感謝が出てくることはないのです。

喜びを強制することはできません。

喜びは自発的なモノだからです。

喜びは自然なモノです。

ですから誰か相手に感謝を求めることは全くの無駄であり、無意味です。



ところが、この無意味なことを私たちはいろんな場面で求めがちです。

あるいは感謝を道具として使ってしまいます。

なぜ人は感謝を求めたり、評価を求めたり、感謝の言葉によって人を動かそうとするのでしょうか?

それは、自分自身に自発的な喜びがないからでしょう。

なぜ自分に自発的な喜びがないのか。

感謝の反対



それは.......話が堂々巡りのようですが、きっと感謝がないからなのではないでしょうか。

感謝のあるときの反対のことが起きているかもしれません。
それは、

 ①他者と対象が見えない、自己中心的な状態である

 ②渡されたモノやココロがない、あるいはあるにもかかわらず、認識できていない

 ③わき上がる喜びがない、あるいは喜びを覆い隠すほどのもの(不安と怒り、孤独、不信、自己評価の低さ)がある


しかし、この3つのうち最初の二つはこの世界と自分を正しく認識すればありえない、と僕は思うのです。


 ①私たちはありがたいことに必ず他者や対象がある世界に生まれ出てきています。

 ②この瞬間もいつもどこからかのモノやココロを渡されています。
衣食住、仕事は私一人で成り立つモノではなく、他者、世界との関連の中で受け渡されています。

自分たちの体を見れば体内には40兆の細菌が手伝って食物を分解し、代謝し、酸素や二酸化炭素、水などが受け渡され、30兆の細胞(「体内細菌は細胞数の10倍」はウソだった」ナショナルジオグラフィック)が分解され再生されています。

自分の考えや性格はこの世界の中で受け渡された情報、体験などの繰り返しの中で生まれたモノであり、自分一人で成り立つモノではない。



では3つめの喜びはどうなのでしょう。

赤ん坊に戻れば、手に持つモノすべては喜びでした。

目に見えるモノすべてが喜びです。

感じられるモノはすべて楽しいのです。

赤ん坊にとってみれば、喜びを与えないモノ、そのようなモノはないのではないか。

赤ん坊からすれば、喜びを波のように感じているかもしれません。

波は海の中で必ずあります。

波のピークは波ですが、波の底も波です。

低いときも高いときもあるけれども、すべて喜びです。

痛みとか悲しみとか、それはどうなのでしょう。

生まれたばかりの赤ん坊にとってみれば、

痛みすら驚きという刺激です。

悲しみも一つの刺激です。

刺激であるとき、喜びの一つだと思うのです。


赤ん坊にとって、喜びの反対は、痛みや悲しみ、怒りではなく、

退屈です。

退屈こそが喜びの反対。

痛みや悲しみが続いたとき、その刺激に対しては退屈が起きます。

この退屈な痛みや悲しみこそ、喜びの対極であり、その本質には退屈がある。


喜びがないときで、退屈があるとき、それは感謝が起きません。

問題は怒りや悲しみ、自己評価の低さではなく、退屈です。


退屈は、変わらない、と認識し、判断するココロです。

あるいは「変えられない」と認識し、判断するココロ。

自分が無力である、「変えられない」と認識し判断するとき、自分に対する退屈があるかもしれません。

「感謝の反対は、あたりまえ」といいますが、

この「あたりまえ」の言葉の奥には同じことの繰り返しという(間違った)認識があり、そして、「退屈」があるんだと思うのです。


大人になっている私たちには物事には喜びばかりではありません。

諍いや羨望や裏切りや悲しみ、戦争や災害は喜びではありません。

赤ん坊との違いは過去の経験から立ち上がる予測、未来があることです。

大人にとって、戦争や災害は痛みや悲しみの連続がある、という予測がある。

この連続にはあきらめがあり、退屈が潜んでいます。

ですから大人にとってはこれらは喜びではあり得ないのです。


子供は違います。

空襲の光は美しかったという子供の頃の体験を語る人がいます。

台風を楽しみにしていた頃があった人も多いのではないでしょうか。

子供にとってはいつもこの瞬間が新鮮で驚きで、喜びなのです。

戦争や災害を肯定するわけではなく、

私たちはどのようにそれを受け止め感じられるかで、喜びを感じることも、

退屈を感じることも可能だと言うことです。




先ほどの感謝の考察にあった

①他者、世界の認識

②変化、コミュニケーションの認識

が正しくできているとき、あたりまえ、とか退屈は感じられません。



つまり、いつも③喜びがある。

ヴェーダーンタでも、

「私とは喜びである」、

と教えてくれています。

2016年1月9日土曜日

瞑想とチャクラWS 感想3

瞑想WS感想のつづきです。

まず、大切な教えを学ぶ機会を作ってくださった先生、心地よい空間を作ってくださった
他の生徒の方々、ワークショップに通うことができた環境、すべてに感謝いたします。

お話しの中で毎回新しい気づきがあり、自分がどんな人間なのか、何を知らなかったのか
が見えてきました。

気づいたことは、「私は足りていない」とずっと思って生きてきたということです。
どこか遠くに行けば、何かをすれば、誰かに出会えば、自分の足りない部分を補えると
思っていました。先生は、そうではなく「在るだけでOK」だと教えてくださいました。
本当はすべてが満ち足りていること、世界が問題なのではなく、私が問題であって私が
解決であるとういう教えは、私をとても楽にしてくれました。

そして今まで自分がどれだけ過去や未来に支配されていたかということに気づきました。
今現在に集中して生きることの大切さを教えていただいたときは、うれしかったです。
それは自分がそうしたいと心のどこかで思っていたからだと思います。

瞑想も最初は集中できずとても難しことに挑戦している気分でしたが、今では瞑想する時間が楽しみになりました。

ワークショップを終えて、こころが楽になったというのが一番ぴったりくる言葉です。

まだまだ恐れや怒りや好き嫌い、いろいろな感情に振り回されることが多いと思いますが、そんな時には先生のお話しを思い出したり、瞑想したり、ここに戻ってくることができるから大丈夫だと思っています。

私はまずは自分を大切にし、認めて、受け入れていこうと思います。
先生のおかげで「自分の人生に責任を持つ」責任を持てるようになりました。
これは簡単なようでとても大きな成果だと思います。

ありがとうございました。
またワークショップがありましたら参加させてください。


伊丹美絵


________________________

<瞑想WSの感想>

今回、瞑想WSを受講できて感謝いたします。

毎回、今まで聞いたことがある内容であっても、自分が感じる感覚が違っていました。
自分の本当の恐れは、何かが少し理解できたように思います。
又、「今を生きる」の感覚が見え隠れする感じがしました。うっすらですが。

ただ、自分の癖(考え方)がとても強く、改め、実践するのが難しい・・・。
周りの環境を整え、できることをしていくしかないのだろうと思います。

グループで受講していると、それぞれ悩みがあり、今の人生が違うと強く感じ、それまでの行いによってヨーガに出会えたのだと思えました。

心を折らずに、丁寧に生きていけたらと思います。

たけし先生、なな先生、一緒に受講して頂いた皆様に感謝いたします。


ひろこ


人はみな「足りていない」と考えている、と教えてくれたのは、昨年マハーサマーディーされたスワミ・ダヤーナンダジでした。

スワミジは「足りていない」を「コンプレックス」と置き換え、
自分が出会ったいろいろな人の様子を詳しく描写することで、おもしろおかしく教えを伝えてこられました。
そんなスワミジの前では心の底からリラックスがはじまり、いつしか涙を流すほど笑っていたりしました。
人はみな苦しんでいて、焦っていて、怒っていて、悲しんでいるけれど、ほんとうのその人はそこから自由なんだよ、と教えてくれました。

とてもわかりやすい言葉、たとえ話から深遠な教えへと導くスワミ・ダヤーナンダジ。

私とは誰か、どこにいるのか、世界とは何か、世界の問題は何か、

瞑想のテーマはここに集約されます。

スワミジは「私が問題で、私が解決である」と力強く言います。

この世界の問題は、自分の問題である、と置き換えて考えることもできます。
この世界の問題の責任は自分にある、と言い切れたならば、
未来に責任を持ってそのように今行動するのか、ということが大切になります。
まるで、自分がアメリカの大統領になっているかのように、
その一言一挙一動が世界を変えていくならば、自分の言動や行動、考えのひとつひとつは
とても大切なものとなります。
そして、その結果おきることはどのようなことでも受け取ること。
ありがたくないことであっても、神からの贈り物として受け取る態度をもつことで、
やがてその贈り物も大切なメッセージだと消化できるようになります。


瞑想ワークショップにおいてもスワミジの言葉がその根幹に流れています。
その教えをみなさんとシェアできることができてとても幸せな経験でした。
また、シェアリングの難しさと、その意義深さを書いておられる方もいましたが、
みなさんからの感想をシェアすることで、さらに深く理解していくことにつながったかとおもいます。
また機会がありましたら、ワークショップを開きたいと思います。
ありがとうございました。

Takeshi

2016年1月6日水曜日

瞑想とチャクラWS 感想2

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
瞑想WS感想のつづきです。
ここ山手台にも申です……

瞑想とチャクラWSまとめ

全7回を終えてその回々は理解していたつもりだったのに後半からは結局瞑想とは何ぞやという考えが浮かぶようになり、そのままチャクラの回に入って怒涛の情報量に触れ、全ての回が終わった時には何が何だかわからないようになっていました。武先生の作ったノートをもう一度始めのページからおさらいして整理してみましたが改めてみても本当にたくさんの情報量で、これを7回でお勉強したのかと思うといっぺんに理解できないのは当然の事(自己肯定・笑)これだけのノートを作ってくださった武先生の仕事量とそれを支えた熱意に心底敬意を払いたいと思います。

WSのなかで得たものをあげると、知識はその分野に於いて自由にしてくれるということ。前々から持っていた、知識は自分を助けてくれるという考えをヨーガの観点からも肯定することができました。だけど忘れてはいけないのは知識にも限界があること。そして瞑想は座ってするものばかりではないということ。自転車に乗りながらでも、子育てしながらでも、できる。祈りも瞑想のひとつ。そこに意識を宿すことで毎日どこでも何をしてても瞑想になることを知りました。

それからWSに参加する度にいうことですが今回も例外なくシェアリングの大切さを実感しました。シェアリングでは自分の考えの軌道修正や自分の持ち得なかった価値観を知れました。モチベーションを高めることにも役立ちました。付き合いが長くなってきたメンバーとはお互いの成長も自分のことのように喜び感動することができました。全部ひとりで勉強していては得られない宝物です。


相変わらず3歩進んで2歩下がるヨギーニ生活ですが、今回落とし込めなかった知識も次に3歩進んだ時にはすっと入ってくることを期待して、とにかく少しずつでも学んでいきたいです。大目標(モクシャ)と中目標(好き嫌い、怒りに振り回されないきれいな心づくり、思いやり・慈悲のこころを持つ、ダルマとアダルマの存在、全ては神で私も神だということ、チャクラへの意識など)をいつも忘れないように行動に意識を宿していきたいです。

質問
  1. ノートに記載された瞑想方法が10個あります。静座瞑想①~④は座ってしかできない瞑想と理解しますが、「存在感の瞑想」「慈悲の瞑想①②」「リスペクト」「思考のラベリング」「感情と自己受容の瞑想」は必ずしも座らなくても、たとえば仕事中や料理してる時、何かのきっかけでそういうことを考えた時にもできることだと理解しても良いですか。
  2. 呼吸に意識を向ける瞑想をしようと決めて始めてもあまりに雑念が多い場合、途中でラベリングの瞑想に切り替えて続けてもいいですか。それともそういう時は一旦止めてしまったほうがいいですか。

宮平みちよ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今回のWSも皆さんのシェアリングとともに成長していった内容となりました。
講座の中ではあまり情報過多にならないように、話す内容を厳選していたと思います。編集時間がなかったノートの方では予定していた内容ではきっと未消化になってしまうと考えて、多くの注釈が入ることになり、結果的に情報量が多くなってしまいました。あくまでの講師自身のメモということで、ご了承ください。もう一度講座を開くときには2倍の時間が欲しいです。。

*感想の中にありました「知識に限界がある」、というのは少し注釈が必要かもしれません。
その世界についての知識は、世界に限界があるために知識にも限界があります。私たちの脳の能力にも限界があるでしょう。けれども、ヨーガやヴェーダーンタが扱っている真実=知識=存在という意味での知識には限界がありません。このあたりの話はとても重要ですが、今回のテーマではなかったので深くはお話ししませんでした。


一つ目の質問について:

瞑想は座って行うのが最も安定していて、程よい緊張を保ちながらリラックスできます。
ですが、必ずしも座って行うことでなければならないわけではありません。
瞑想は大きく2つの段階があります。まずはあちらこちらに飛んでしまう考えを静かにさせていくこと。心をきれいにすること。
その先に、大切な考えに集中し熟考し、理解し、定着させていくこと
最初の段階では、無意識に忙しい心身を休めて、呼吸や行動、感覚や考えに気づいていくことによって、心と体は穏やかになってきます。ここまでのためにヨーガではヤマ(正しくないこと=アダルマをやめる)とニヤマ(正しいこと=ダルマを行う)**、そして体を動かすアーサナがあり、呼吸法があります。アーサナと呼吸法が定着しているならば、第一段階の瞑想、考えを静かにしてくことは、座っているときのほうが断然やりやすいかと思います。
質問にあった「存在感の瞑想」「慈悲の瞑想」「リスペクト」「思考のラベリング」「感情と自己受容の瞑想」などは、穏やかになった心という条件のもと、その上である特定の考えに集中し、熟考し、理解し、定着させていくこと、つまり第2段階に当てはまってきます。
第2段階においても、まずは静かに一人で座って瞑想するようなことがなければ熟考するチャンスがないかもしれません。
けれどもやがて普段の仕事や料理などでふと沸き起こる考えのなかに、これらの大切な特定の考えが浮かんでくることが自動的におきます。
この自動的にうかんでくる正しい考え、その瞬間にとどまること、これも大切な瞑想です。

*今回のWSでの瞑想法はヨーガ・ヴェーダーンタを基礎にしています。慈悲、思考のラベリングの瞑想はヴィパッサナー瞑想を参考に、リスペクト、感情と自己受容の瞑想は認知行動療法、対人関係療法、アドラー心理学などを参考にしました。
**ヤマ・ニヤマは今回のWSではお話しできませんでした。ヨーガ・スートラ第2章にある重要な瞑想のステップです。

2つ目の質問についての考え:
あまりに雑念が多い場合はラベリングするのはとても効果的だと思います。落ち着いてきたら、また呼吸に戻ってくるといいでしょう。
瞑想をすっぱりやめて、やりたい仕事、やるべき仕事を1時間ほどでさっと済ませてしまえば、その後集中しやすくなるときもあります。
正しい方法は自分の心と体に無理が起きていないかどうか、です。
無理が起きているときには呼吸が浅くなります。
正しければ必ず呼吸が深くなりますので、自分の呼吸に聞いてみるともっとも無理のない方法でできると思います。呼吸が浅いか深いかを見分けようと思ったら、普段から呼吸を観察する必要が出てきますね。これこそ瞑想かもしれません。

2015年12月18日金曜日

瞑想とチャクラWS 感想

全7回で行われた瞑想とチャクラワークショップ。
参加者の方々のシェアリングによって、形を変えて進めていくことになりました。今回の講座はみなさんと一緒に作り上げていく講座だったと思っています。
以下、みなさんからの感想を一部アップしていきたいと思います。
Takeshi

(参加者以外の方にもわかりやすいように*で少し解説させていただきました)


瞑想講座を終えて

私は最近ネガティブな感情や価値観にとらわれてがんじがらめになっているような気がして、「瞑想」を学び、もう少し心穏やかに過ごせたらと思い受講させていただきました。

毎回様々な気づきがあり、過去の出来事を思い返した時には、今までとはまた違った見え方をしました。
その中でも、強く心に残ったのは同情と慈悲は違うという事です。

何年も前のことですが、色々なことが重なりとても辛かった時期に誰よりも心配し心を痛めてくれたのは家族だったのに、実際に助けられたのは第三者だったという経験があります。
そのように感じてしまう事が家族に申し訳なく複雑な気持ちでしたが、理屈がわかると素直に改めて感謝することが出来ました。
大切に思う相手ほど難しいとは思いますが、自分が支える側に立った時には心に寄り添いながらも違う次元から客観的に見るという事を意識したいと思います。

想像していた以上に講座の内容が深く、聞きなれない言葉も多かったのでとても理解出来たとは思えませんが、講座を受講する前と後では明らかに自分の中で何かが変わったと感じています。
シェアリングも貴重な体験でした。講座を開いて下さった先生方、一緒に講座を受講した皆さま、ありがとうございました。

亀井 あゆみ

*同情と慈悲について。
例えばですが、溺れている人を助けようとして一緒に溺れてしまうような、そんな感情や考えが同情です。一方、溺れている人の苦しみを知りながら、一旦潜って、しがみつかれている腕をほどいてから、後ろに回って救助に回る、ということが可能になるのが慈悲です、と講座では解説したように思います。
同情では他者と同じ気持ちになることです。感情と考えを他者と同じにしてしまうことです。慈悲は他者の感情と考えに寄り添い、理解しながら、客観的に全体からの視点を失わないことです。
しかしながら同情は決して悪者ではありません。同情は慈悲の一歩手前の大事なステップです。同情がなければ慈悲もおこりません。

__________________________


チャクラと瞑想のワークショップを受講できたことに感謝しています。
毎回、内容が濃厚で引き込まれ、いつも時間があっという間でした。また、教室にいる数時間は不思議と透き通った気持ちになれ、俗世間から離れたお寺か神社にいるような感覚でした。

チャクラと瞑想という切り口から大昔より伝わっている聖典ヴェーダーンタやバガヴァットギーターに触れていくのは、より良く生きるための人生哲学の勉強そのものでした。
普段自分が感じている違和感、疑問、問題点に対してこんな捉え方があったのかと、新しい考え方や分析の仕方を知って、目からウロコがぼろんぼろんこぼれ落ちました。

まだ毎日の座って行う瞑想は時間が確保できなかったり、できても眠気や考え事でなかなか集中できず、まだまだ訓練が必要です。今までになかった習慣なので、いきなり身に付くものと思わず、気長に1年や2年かかっても取り組みたいと思います。

また、瞑想は日常のすべてを一旦横に置いて立ち止まり、普段は見ないようにしている自分の感情や、無意識に繰り返している考え方の癖を見つめ直す自己対話でもあり、それは自分の中に自分をとり戻していくような感覚がしました。また、例えるなら薬を染み込ませていくような作業で、良薬口に苦しと言いますが、講義の中には自分の言動を省みなければならない耳の痛い話や、時にわけもなく胸がいっぱいになって涙が出てくる時もありました。講座を受けていた時間そのものも瞑想だったと思います。

講座のシェアリングの中で感じたことですが、お互い生活の場や育ちや考え方が違っていても、仕事や人間関係や自分自身についてなど、自分だけでなく、それぞれが悩みや苦しさの中にいることを知りました。
どんな人も恐れや不安を持っていて、その存在から逃げようとしたり消し去ろうとしても、生きている限りは離れられないものだと思いました。
7回目の授業でイーシュワラ(イーシュワラ=宇宙全体の意識、生きている全体宇宙、神と訳される場合もあります)の話がありましたが、全ての人が恐れや不安を持っているということは、全ての人に自分がイーシュワラだと思い出す可能性があるのだと思いました。
もし恐れや不安の存在が無ければ、本当の幸福を探求することもなくなってしまうかもしれません。
そして、イーシュワラの存在を知れば知るほど、一人で学んでいるのではなく、お互いの繋がりを感じ、目の前にいた方々が悩みや苦しみを乗り越えてくれたらという気持ちになりました。

もし、人生の最中に本当の幸福に目覚めたとしても、おそらく生まれ変わると再びリセットされて、また探求を繰り返すのかもしれません。そうだとしたら、そこに人間が生きる普遍的な理由があるように思います。

話が大きくなってしまいましたが、
まだ理解できていないことも多く、もっと講座を続けて欲しい気持ちもあります。
ただ、勉強したことを活かす実践が始まったところでもあるので、瞑想を日常の習慣にできるように努力していきたいと思います。

今回、このような勉強の場を与えてくださり、お忙しい中、本にできそうなくらいのテキストと講義を毎回用意していただいたtakeshi先生、nana先生、縁あって一緒に学ぶことができた生徒の皆様に(そして、あるがままに生きているブナちゃんと猫ちゃんにも)とても感謝しています。
本当にありがとうございました。

三浦祥子


__________________________

未だに瞑想は出来ていないですが、そこに至る様々な事を教えてくださって勉強になりました。瞑想にも色々種類があることも知りました。
チャクラに関しては自分の弱い所がどういう意味を持つのかと言うことも分かって面白かったです。
なかなか日々の生活で瞑想をする事が自分の中で拒否してる部分と言いますか、自分が出来るとは思えないと思い込んでるので、せっかく学ばせてもらった事を無駄にしないように一歩を踏み出せるよう勇気を持ちたいと思います。一回の瞑想で何かしら自分にプラスな事があれば続けられそうなので挑戦した時には自分の中の変化を見つめられたらと思います。

畠山明子
__________________________

瞑想ワークショップを終えて

瞑想のワークショップを受けて、自分の事を客観的に見ると共に、他とのかかわりや物質としての存在として在る事に気付きました。

いつの頃からか、心穏やかに過ごせる日が多くなった気がします。

全ての物や事から自由になれると、他の事も今までと違って見えたり、考えたり出来るようになりました。

ヨガも瞑想も、よちよち歩きですが、これからもよろしくお願いします。
                                                古賀裕子
__________________________

「チャクラと瞑想ワークショップ感想」

 「「わたし」とは、「世界との線引きをおこなった内側」ではありません。」初回に言われたこの言葉を、すぐには理解できなかった。瞑想して、自分の体で確認してみることにした。世界と自分との境界にあえて注意した。

 目を閉じて、息を吸う。お腹と背中がふくらみ、それ以上ふくらまないところで止まった。自分の輪郭を内側から感じた。そのまましばらく続けた。外から風が吹いてきた。耳や頬、指の皮膚にあたった。動く外気に自分の存在を教えられた。瞑想を終えて目を開いた。目の前に、いろいろなものが広がった。網戸、障子、畳の目、木の枝、葉っぱ、雲、電線、ベランダの手すり。それらと自分が対等で、仲間に入れてもらえる気がした。

 毎日、瞑想を続けた。そのうちに、瞑想はぎこちなくなり、うまく集中できなくなった。問題を探った。隙間のような違和感があった。呼吸する自分を、観察する自分が少し遅れて追いかけているようだった。自分の癖に気がついた。この癖を頼りに、たくさんの発見や喜びを得てきたけれど、たくさん苦しめられもした。ふたつの自分の隙間をなくすようにした。違和感が消えた。没頭と観察とが、同時にできることがわかった。「瞑想には時間がありません。」教わったこの言葉の意味を経験できた。初心に戻る方法を学んだ。

 これまでたくさんの人やものたちに支えられてきた。そのことを思い出したり、忘れたりしながら生きてきた。自分が世界の中心であるかのようにふるまい、流れに逆らうようなこともしてきた。今でも、自分と世界とのあいだに隙間をつくり、遅れをとってしまうことがある。そのことに気を許し、面白がってしまうこともある。動きつづける日常の中では、なかなか自然に世界と調和できないけれど、せめて瞑想のあいだだけでも、そばにいてくれる人やものたちと呼吸を合わせて、清々しくいたいと思う。
H・M
__________________________


日々生活をしていると、好き・嫌いという感情は、やはり普通にあります。
最初はそれがいけない事なのかと思って、WSに参加していました。聖人や僧侶の様にならねばならないのか、それが出来なければ自分はダメな人間なのかと思って、正直重い気持ちでいました。

そういった感情が無くなれば楽なのかもしれませんが、心は嘘をつけません。しかし、好き・嫌いというものがあっても、それらに振り回されないでいる事が本当は大事である事がわかり、それならば、自分も少しずつではあっても出来るなと思い、随分楽になりました。自分にOKを出す事が出来たのです。

下満 恭子

*瞑想の邪魔をしていくのが好きと嫌いという考えであることを全体の講座を通じて話してきました。元々は好きと嫌いもこの個人の体を守るための大切な感覚でありそこから生まれた考えかもしれませんが、好き嫌いが暴走して周りとの協調を失いながら自分の自我を満足させるためだけの好き嫌いになっています。この好き・嫌いに対して注意深く観察していくことが大切だと講座では進めてきました。
「好き嫌い」を嫌うのではなく、「好き嫌い」を好きになるのではなく、それをそのまま観察して、うまくつきあうこと。これによって「好き嫌い」によって振り回されないでいくことであり、全体からの視点を保ち続ける、つまり「客観性を持つ」ということです。
自分や他者のことへの好き嫌いから自由になり、自分と他者を認めていくことが、瞑想では大きなテーマであり、ステップになるのです。
__________________________

WS受講期間も含めて、今年はそれまでそれなりに続けていたアーサナや瞑想、食事といったヨーガ的な生活習慣ができている実感が自分にとって低い状況でした。
それは家族にヨーガを続けることをとがめられたことで自己肯定ができなくなり、また叱られるんじゃないかという恐れが引き金でした。それらの問題は今もつきまとうのが分かります。
疲れた私は無意識にヨーガを深めることの一時停止を選んだほうが安全と考えました。
WSを終えて、その選択がその時は最善ではあったけれど、やっぱり誤りだったと感じました。
瞑想はわたしからのメッセージをキャッチする手段です。そのメッセージを正しく受け取って、必要なくなった記憶から自由になったときの感覚ときたら。
この数日、マントラを唱えたり、少し瞑想するようになって、やはり考えが穏やかで整理されて、心が安定しています。あるがままの自分を受け入れる歓び。(職場でラジオからビートルズの“let it be”が流れてきた時、ハートの深いところが反応して、今までと違って聞こえました)
WSに参加して、これからも自分のペースで瞑想を続けていく意識付けができました。ありがとうございました。

よし子